赤裸々であけすけな表現が苦手で、最初は主人公のシェリルにも共感できなかった。
孤独ながらも自己完結した秩序ある生活の中で妄想と共生していたシェリル。若く自堕落で身勝手なクリーがやってきてカオスとなった暮らし。
敵同士だった二人がフィクションに入り込むようなゲームを通して共犯者となり何かが生まれたはずが、シェリルの暴走した妄想の中でクリーを女というモノとして扱っていたことがわかり決裂。
「奇妙」で「痛い」女たちの様子に「ないでしょ」と思いつつ居たたまれず目を背けたくなる。しかしクリーの赤ん坊が生まれる頃から印象が変わってゆく。
シェリルがクリーとの恋は特殊な状況ゆえにうまれた気の迷いであり、自分はまた独りになるべきなのだと悟り決意しながら、常にクリーが去って行くことを覚悟している様子はいじらくし、最後に自らクリーを出ていかせるところは切なかった。
ずっと、心の中で会話してきたクベルコ・ボンディ(ジャック)に声に出して話しかけるようになったことで子供の頃から依存していた頭の中の赤ん坊と決別し、目の前のジャックとしっかり向き合うようになったことに安堵した。最後には実際は妄想の中の男とは違い、ろくでもなくつまらない男であるフィリップを、静かに自然に家から帰すシェリルに溜飲が下がるような思いで喝采していた。
つまり、最後にはシェリルに共感し、応援していたのだ。それはたぶんシェリルの孤独(あちこちの赤ん坊にクベルコ・ボンディを見つけてしまうところなど)や現実社会や他者との折り合いの付け方(妄想、フィクションの中に入り込むゲームなど)に対して「変な人だ」と思いながらも必死さやいじらしさを感じ、シェリルほどに極端ではないにせよ、どこかで自分にもこの「孤独」や「無理をして現実と折り合いをつけている感じ」があることに気づいてしまうからだろう。そしてシェリルが心身ともに現実の人たちと関わりあって傷ついてぼろぼろになりながら変わってゆく様子に胸が打たれるからだろう。