大変良い本だった。
笑いについて、ことばが生れる前段階の発達について、「考える」ことができるとはどういうことなのかなど、乳幼児の年齢に伴う発達の過程を、様々な実験の実例を引きつつ、乳幼児の目線に寄り添うような姿勢で考察されている。
そして、その発達過程が結実する3歳児に至って、過去と未来という視野の芽生えと共に、他者と関係を結び、自分を制御して、意志をもって行動する大人の世界の入口に立っている乳幼児の姿が描かれていく。
溌剌として、未完成ではあるけれど、精一杯自分を表現しようとする瑞々しい乳幼児の発達の瞬間で、その世界を私たち「大人」に分かるように言葉を用いながら、決してそれを研究対象として、大人の社会の興味関心に流されないような配慮が随所に漂っている。
全編にわたって示唆に富んでいて、また本質的な問いを探求している為か、古びた見解になっておらず、現代においても参考になるものと信ずる一冊だったが、個人的にこの新書のハイライトだと感じるのは終盤の“人はつくられるか”という一章以降だ。
人の育成にとって大事なのは「遺伝か環境か」、そして生後の劣悪な環境は外傷を残し、以後の発達に影響を与えうるのか。こういった問いを動物実験や海外の施設育ちの子供の生育を追跡調査した研究事例などを引きつつ考察される。そこからは生後二年までの初期経験は回復可能なものであるという結果が見えてくる。
乳幼児の逞しいレジリエンスの一方で、母子の「密室的な」環境を危惧し、育児がその国の歴史に根ざした文化的な営みである事を前置きしながらも、アジアの国々に多く、日本でも伝統的であった子供を「人垣で取り巻く」ように、多くの人と関わり合いながら子供が育っていく事が子供の安心感に影響を与えている事に注目する。
親が無くとも、きょうだい、親戚、あるいは周囲の理解ある大人との関わり合いの中で、子供はその柔軟な修復力を発揮することができるのかもしれない。
そして筆者はあとがきで、自分が幼いころ父親を亡くして母子家庭で育った事を控えめながら、抑えがたい感情をこめて綴っている。
執筆当時(1980年)、母親を糾弾する様な風潮が強まっていたようで、所々、いかにその風潮が一面的で、根拠に乏しく、実際に差し迫った状況で育児をしている「母」を追い込むものであるかを苦言していた事が思い返されてくる。そこには、おそらく自身の母親の姿が重なっていたのではないだろうか。
そのあとがきに滲む、抑えがたい感情のゆらぎに触れると、筆者が前半からなるべく社会的な育児傾向には触れず、乳幼児の姿を偏見に囚われずに、現在得られる知見の限りを尽くして、極力ありのままに捉えようという意図をもって語っていたことに気づかされるのだった。
筆者は育児には免状など必要ないし、「ダメ親父にグウタラ息子が育つとは限らないところが、なんともいえぬ子育ての皮肉な面白さです」と語る。なんなら「むとんちゃく」であることにも効用があるという説を引っ張ってくる。
育児には「こうあるべき姿」や「あらねばならぬ姿」を押し付けるべきではない。様々な価値観をもって育児に臨む自由があって良い。育児は芸術にも似た、親子が(あるいは子とそれを取り巻く周囲の人々が)共同で織りなす創造的な営みなのである。親が自分好みの作品に仕立てたいという願望が生じることもあるかもしれない。けれど、それは子の意志に沿うものだろうか。乳幼児はすでに主体的に行き始めているのだから。
おそらく、間違いや失敗、悲哀や苦悩に満ちた時に繰り返し出遭う事になるだろう。それでも、子供にはそれを修正していく力が備わっている。過ちに打ちひしがれずに、親も子も学び続けて成長していくことが欠かせないのだろう。その際に、この本は多くの助けと慰めを与えてくれるのではないだろうか。
そして、どんな時でも希望を持って、苦悩も含めて育児は「楽しい」ものだと思ってもらいたい。それが、自らの経験を通して語りかける作者のメッセージではないかと感じるのだった。